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VvK41 ボイス美術 Beuys Bijyutsu 2025年12月12日(金)から24日(水) 12:00から18:00 (月曜日休み) 「ヨーゼフ・ボイス」をテーマにした展覧会です。 「人間は誰でも芸術家である」という理念のもと、 「社会彫刻」を展開し、死後も絶大な影響力を 維持し続けるヨーゼフ・ボイス。 ただ、ヨーゼフ・ボイスをアートの歴史として捉えるのではなく、 この不安定な社会情勢の中、戦争経験者でもあり、 教育者でもあり、政治・スピリチュアル・環境問題に コミットしたヨーゼフ・ボイスを考察することに意義と 可能性を感じ、企画しました。 井上明彦 INOUE Akihiko 大石茉莉香 OISHI Marika 岡本光博 OKAMOTO Mitsuhiro 川口亜子 KAWAGUCHI Ako 菊池和晃 KIKUCHI Kazuaki 北尾博史 KITAO Hiroshi 白川昌生+居原田遥 SHIRAWAKA Yoshio + IHARADA Haruka 木彗花 TAKAGI Suika PRESS RELEASE * 展覧会記録冊子作製予定です。 楠本智郎さん(つなぎ美術館学芸員) によるテキスト掲載予定 A5スクエアサイズ、16ページ。 1200円。予約受付できます。 希望される場合はメールしてください。 kunstarzt@gmail.com |
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井上明彦 INOUE Akihiko ボイスはガザの夢を見るか? Does Beuys dream Gaza ? 2025 叩いたアルミニウム、LEDテープライト、木材、ビス、留具ほか ボイスの金言 "Kunst=Kapital(芸術は資本である)"は、 左から右に読む。アラビア語では逆に右から左に読む。 等号なのでどちらでも同じかもしれないが、 Kunstが先か、Kapitalが先かで、思考の向きが変わる。 ボイスにとっては、芸術を美的鑑賞物の位置から解放して 社会を形成するあらゆる創造活動に 拡張することが問題だったから、当然前者だろう。 同時に彼は、社会活動の元手となる「資本」を 人間の直感と創造力と捉え、それを黒板の図式でも示していた。 「資本」の語はマルクスの『資本論 Das Kapital』と 結びつけられることが多い。Wikipediaのアラビア語版で 「資本」を見ても、マルクスの原書の写真が載っている。 そもそも「資本」とは何か? 近代資本主義以降、資本とはもっぱら事業の元手となる 資金や生産手段を指すが、それ以前の前期的資本は、 ドイツ語で「大洪水以前の資本(vorsintflutliches Kapital)」という。 ノアの洪水伝説のもととなったメソポタミアの洪水のころ、 バビロンで最古の貨幣としてリング状の銀が使われた。 だが、それ以前や民衆のあいだでは、もっぱら穀物や羊毛が 支払いに使われた。さらに遡れば物々交換だろう。 先住民の世界では今も西洋近代的な資本主義が入り込まず、 狩猟採集で暮らす人々もいる。そこでは「資本」とは、 自然の中で共に生き延びるための知恵や技術、 それがもたらす物的心的な糧であり、それが社会を支える。 これに対し、近代資本主義の行き着く先は、 資本を持った個人や企業、国家が資源を奪い合う戦争社会だ。 ガザに滞在した画家の証言によれば、 生死の境に接して生きる人々は、 報道される悲惨さとは別に、 訪れる人を歓待し、愛し合い、歌い、踊り、 創る悦びを心底大事にすると言う。 ボイスはガザの夢を見るか? |
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大石茉莉香 OISHI Marika ココナッツデモ コカコーラ Coconut Demo Coca-Cola 2025 コカ・コーラ瓶、ココナッツウォーター、 封蝋、麻紐、ワイヤー、ココナッツの殻、木箱 2021年2月から始まったミャンマーの軍事クーデター。 その抵抗として、道端にココナッツが置かれた写真を見た。 私はココナッツが人しか見えなくなり、 同年7月の個展で、その時点で発表されていた クーデターによる犠牲者数856人分のココナッツ写真を 印刷し水に溶かす作品「ココナッツデモ」を発表した。 今回はヨーゼフ・ボイスの作品"Coca-Cola Tea"の“ 素材を入れ替えることで大量生産のコカコーラ瓶を 彫刻作品へ変換する”という構造と、 "できるだけ世に行き渡らせるための大量に作れる マルチプル作品である"という特徴を借りて、 ココナッツをハンマーで割り、そこから出た ココナッツ1個分のココナッツウォーターを コカ・コーラの瓶に入れた。 木箱には犠牲者の名前を印字し、 犠牲者と同じ数のエディションを展開する。 (2025年12月時点で7,522エディション) 本展では初めの12名分を展示する。 今改めて思うのは、軍事クーデターに対する抗議として 日用品であるココナッツを人の代わりに路上に置く あの行為こそ、ボイスがいう“社会彫刻”そのもの ではないかということである。 ※犠牲者数および死亡者の個別リストは、 AAPPによる 2025年12月時点の公開データに基づく。 |
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岡本光博 OKAMOTO Mitsuhiro ST#454 IDEA from 25W 2025 脳模型、25W黄色電球、アダプターソケット Brain model, 25W yellow bulb, adapter socket 300×300×150mm わずか25ワットほどの電力で稼働するという人間の脳。 ヨーゼフ・ボイス「カプリ・バッテリー」(1985)の形式を借用し、 脳が稼働する電力を可視化し、リアルな’閃く’マンガ表現オブジェである。 |
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川口亜子 KAWAGUCHI Ako Baa,Baa,Black Sheep/黒羊 2024-2025 108体の羊毛フェルト、真鍮針金 ボイスの「Felt Suit」とアイスランドの羊たちに 影響を受けて制作している作品です。 ボイスにとってフェルトは「保護」と「生命」の象徴だといわれてますが、 その通り、フェルトの暖かさはそのまま人の温かさに置き換えられ、 社会の中で傷ついた心身を優しく包み込んでくれます。 それは私自身、アイスランドを旅したときの寒さと疲労を、 途中で出会った無邪気で自由奔放な羊たちに心を癒され 元気をもらった経験と結びついています。 |
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菊池和晃 KIKUCHI Kazuaki 芋の皮を剥くことでさえ Even peeling potatoes 2025 フェルト、鉄 「芋の皮を剥くことでさえ、 それが意識的な活動であるならば、芸術活動である」 そうボイスは言った。であるならば、槌の一振りが、 長い時間をかけ少しずつ岩を削り、 例えば美しい女神の姿を模るように、 そこに明確なビジョンが宿るなら、このハンドルの1回転は より良い社会を彫刻していくはずだ。 だが、ここではひとまずその真偽は置いておく。 私は、タキサイキア現象のような、ぐんと引き延ばされた 一瞬を作りたいと思った。意義や主張、価値観が 挟まる間もないその一瞬を。 何の意義も持たないかもしれない、 その瞬間が完結しないように。 |
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北尾博史 KITAO Hiroshi ボク ノ ボイス -アシモト ノ セカイ- My Beuys -the world at your feet- iron stone copper 2025 鉄 石 銅 それぞれの日々の暮らしの帰り道。 五叉路の交差点、横断歩道 引き寄せ合う力を意識してみる。 熱エネルギー、電力と重力。 それから少しの-袖振り合うも多生の縁- |
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白川昌生+居原田遥 SHIRAWAKA Yoshio + IHARADA Haruka 黒板・2025・京都 2025 黒板、パステルチョーク、付箋紙 920×620×18o each 白川昌生+居原田遥によって行われた 対話集会「今日の芸術の意味と役割について」 (京都市立芸術大学、2025年11月9日) の際に提示され、書き込まれていった黒板3点。 「対話集会」の記録映像 2025 映像 4'11'' 撮影:山根香 録音:藤口諒太、 提供:京都市立芸術大学 *この記録映像は「TOPOS:まなびあう庭としての 芸術大学プログラムB「共にいること──経験の共有」 の事業記録の一部を借用しています。 この3枚の「黒板」は、2025年11月9日に京都市立芸術大学で 開催した「対話集会」をもとに制作されたものです。 この「対話集会」は、「今日の芸術の意味と役割について」 というテーマをもとに対話をしてみようと参加者を呼びかけて 開催したイヴェントで、近隣の学生やアーティストなど、 関心を持ってくれた方々が集まってくれました。 会の冒頭では、対話のための前提や問題提起、 あるいはきっかけとして示されたドローイングがあり、 これはアーティストである白川昌生が制作したものです。 ドローイングにもあるように、白川が示したのは、 今日に至るまでの長い人類の歴史のなかで、 芸術がいかに本質的な営みであったのか、 そのあり方や変遷、そして現在の社会と芸術を とりまく制度についてのキーワードと図像でした。 この「黒板」をきっかけに、1時間半の対話が行われました。 そのなかで出された論点の提案、質問、コメントが付箋紙に書かれ、 追加されていきました。途中で黒板に直接加筆される場面も ありました。この「対話集会」と「黒板」という提示の形式は、 ヨーゼフ・ボイスが1984年に来日した際に東京藝術大学で 開催した「対話集会」およびそれに近い実践を参考にしたものです。 対話集会では、白川が提示した芸術の意味をめぐる議論、 芸術という位置付けやカテゴリについて、さらには 今日の芸術をめぐる問題についてなど、多岐にわたる意見や 問いが出されました。とはいえ、1時間半ではとても収集のつかない、 散漫とも言える議論や主張がいくつも飛び出しました。 なんらかの結論や意見の統合を行うことを目的としない からこその「対話」でもあるのですが、同時に憤りも感じました。 また反省もありました。まずは、時間が短かったこと 。終わりを設定しない対話だからこそ、もしかすると体力の続くかぎり、 気が済むまで続けるべきだったのかもしれません。 そして、これはとても深刻に受け止めていますが、 ありがたいことに多くの方々に参加していただいたものの 、そのなかで女性が発言しづらいような環境をつくってしまったことです。 これはイヴェントにおける発言者の中心が男性であったことを 意味していますが、けしてその発言者に責任があるわけではなく、 その場を設定した私を含む場全体の問題です。 誰しもが参加しやすくあるべき「対話」のあり方を より丁寧に検討すべきだったと感じています。 はじめてボイスの対話集会の記録映像を見たとき、会 場の熱量には驚いたものの、その対話の持続の可能性と展開は、 正直つまらないなとも思ったものです。しかし、実際に自分でやってみて、 この持続と展開への憤りと、対話の場それ自体への反省が 最も重要なのではないかとも気づきました。現在あるべき、 そして残していくべき「対話」とはどのようなものなのでしょうか。 2025年京都で行った私たちの対話は以上のような結果でした。 なにより今の時代を生き続けるために、「芸術」をめぐる内容に限らず、 対話と、その実践のための思考を、 ひとまず根気よく続けていかなくてはいけないと思います。 (text by 居原田遥) 白川昌生 SHIRAWAKA Yoshio 群馬県朝鮮人強制連行追悼碑のためのドローイング 2024 紙に鉛筆、オイルパステル 410×310×21o (frame) 白川昌生 SHIRAWAKA Yoshio 群馬県朝鮮人強制連行追悼碑のための映像 2025 映像 白川昌生 SHIRAWAKA Yoshio 出雲信仰はアートになる 2025 映像 2015年に白川が制作した作品 《群馬県朝鮮人強制連行追悼碑》のためのドローイングと、 そのモチーフである群馬県高崎市の県立公園 「群馬の森」にある朝鮮人強制連行犠牲者追悼碑を めぐる経緯を白川自身が記録し編集した映像です。 また、近年白川がリサーチと作品制作のテーマとしている 出雲信仰に関する記録の映像も併せて展示しています。 《群馬県朝鮮人強制連行追悼碑》は、朝鮮人強制連行の 歴史を記憶するために群馬県の公園に設置されていた 追悼碑をもとに、布と構造体を用いて仮設の モニュメントとして提示された作品でした。 しかし、この作品を美術館で発表しようとした2017年当時、 元の追悼碑の撤去の是非をめぐる議論が続いていたこともあり、 白川の作品自体も展示中止となる事態が発生しました。 結果として2025年現在、このモチーフとなった「追悼碑」は、 公園から撤去されています。映像ではその場所の記録と、 白川をはじめとする数名によって取り組まれたアーカイブの プロジェクトである「2024 AR朝鮮人追悼碑再建立プロジェクト」 の紹介が行われています。 映像にはもうひとつ、「出雲神話はアートになる」という 白川の一連の取り組みの記録も示されています。 これは白川が近年取り組んできた鳥取県米子市でのリサーチを踏まえ、 制作されたテキストとドローイングによる作品であり、 大正時代から今日までの人物や地域の歴史を、 信仰という観点から捉え直す思考の実践です。 (text by 居原田遥) |
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木彗花 TAKAGI Suika Gabe series ○ Gabe series △ Gabe series □ 2025 スマホ粉砕塊, 膠 smashed Smartphone debris, animal glue 簡単に情報を得たり会わずとも誰かと繋がることができる、 手のひらに収まるスマートフォンは、 今の世の中を生きる人々が1番身につけている、 大切にしているジュエリーだと考えます。 当たり前になくてはならない存在であるスマートフォン。 それを粉砕した時、どんな色でも灰色になりました。 まるで世の中の色の様で、輝いてもいます。 便利なツールである裏には、人間の記憶や 欲望が灰化しているように感じます。 小さい頃は、ただ楽しかったり、無心で純粋な 気持ちだった気がします。泥団子や積み木がその例です。 小さい頃に夢中になったことは誰にでもあると思います。 それが今の自分を、少なくとも私たちを作ってくれている気がする。 コンクリートと同じで、地に足をつけて歩いています。 楽しい、悲しい、嬉しい、寂しい。様々な感情は、 人間の美しさです。 自分の目で見て、感じたものも、 信じて大切にして欲しいと私は考えます。 https://youtu.be/Y6AyxeW8vMc |
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